節約の喜怒哀楽

節約へのきっかけ

私が節約に目覚めたのは小学校二年生の時でした。社会見学で地域を歩いて川や水の大切さを学びました。
水を大事にしよう、は水の節約だけでなく、電気やガス、環境問題についても考えるようになりました。
見方によってはケチな部分もありましたが、それは子どもなりの節約方法でした。
例えばノートを最後まで使ってもプリントの白紙の部分を貼り付けて使い続けたり、のりは米粒を代用してみたり、振り返るとただただせこくて汚いだけでした。
そして節約=我慢という考えになっていきます。しかし、欲しいものは我慢する、は子どもには少々難しく、変わりに欲しいものではないけれど、欲しいものに比較的近くて値段が安いもの、を選ぶようになりました。まだそれは良い方で、成長していくと欲しいものを正直に言えなくなる子どもになっていきました。次第に「もったいない」が口癖になり、親の買ったものにも口を出し嫌がられる始末。この頃の私は、我慢したり節約することが良いこと、良いことだから褒められる、と思っていました。けれど必ずしも褒められるわけではありませんでした。何で欲しいものを言わない買わないのか、何で食べたいものを食べないのか、子どもらしくない、と散々言われてきました。その度に、こんなに頑張ってるのに、と恩着せがましいことを思っていました。

 

節約で失うもの得るもの

高校生になると友達同士でファストフードなどにも行くようになります。当時、自称節約家だった私は、周りが軽食を頼む中ドリンクのみ、もしくは水のみという今考えると空気の読めない嫌な奴でした。
その歳になると最早何の意地で節約に励んでいるのか分からなくなっていました。
欲しいものがあっても買わない、誰かが水に出しっぱなしにしているのを見てもイライラする、電気を点けたまま寝ると聞いただけでも腹が立つようになりました。
それらは自分の意思ではなく、節約あっての行動だということに気付き始めました。
今現在は料理の節約に力を入れています。数円でも安く買えれば嬉しい。時間短縮のメニューならガス代も減って嬉しい。
安くて美味しいものを作れば達成感があり、満足感を得られます。
高校生の頃に感じた節約への疑問は、目標もなく、達成感も満足感もなかったせいだと理解しました。自分が楽しんでいないのに節約するのは、無駄な義務感しかなく、苦しさがあって当然です。目標に向かって楽しく節約すれば自ずと結果も出るので楽しみにもなります。

 

買わないことが節約

節約と聞くと我慢やケチなどネガティブな印象が先に出てきます。否定はしません。
しかしポジティブに考えると充実した生活を送れるようになります。欲しいものがあっても、衝動で買わず、じっくり考えることはとても重要です。
悩みぬいてやっぱり欲しい、と思えるものに出会えたのなら、大げさかもしれませんが、それは一生大事する覚悟が出来たと言えます。
更に究極ですが、自分が死ぬことを考えると衝動買いは減るかもしれません。自分が死ねば、買ったものはガラクタになる、ガラクタを処分するのは他人です。死んでまで他人に迷惑は掛けたくないので、私は何か買うときは必ず自分が死んだあとを想像します。